2019.1.8

このカテゴリーは、過去にHo'ailonaで連載していたものを再掲しています。なぜだかわからないけれど、昔から、友人・知人とお酒を飲みにいくと、みんなに「ママ」と呼ばれる機会が多く、「クラブ整体」が生まれました。特別な健康法を提案するのではなく、自分を楽しく機嫌よく生きる、ちょっとしたヒントになればと綴っています。(注:ママキャラは、連載時のみですのでご安心を。)

♯8 中庸って何?

ねえ、昨年の末に、お店にすんごい酔っ払い女子が来てたでしょ?
ほら、やたらとリセット、リセット騒いでた子(笑)
その時ママがつぶやいていた「ちゅうよう?」って言葉が気になったんだけど…。東洋哲学的にいうところの「ちゅうよう」のこと、教えてほしい!

あら、あなたよく聞いてたわね。

「ちゅうよう」って「中庸」と書くんだけれど、これは元々儒教の用語よ。中国で、孔子が説き始めた「儒教」において徳の概念を表す時に使った言葉のようね。
孔子亡き後に、儒学を学ぶときの教科書的なものとしてまとめられた四書は『論語』『大学』『中庸』『孟子』で構成されていてるの。一冊が割かれた『中庸』って概念は、最後に学ぶべきと言われてたらしいわ。いかにも重要そうね。

まあ、歴史的背景はこの辺にしておくとして、質問の真意は「中庸」って言葉がどんな意味 を持って、どういう風に用いられているかってことよね?

このご時世、ググったら大概のことは出てくると思うから、ママもググってみたわ。

「極端な行き方をせず穏当なこと。片寄らず中正なこと。」って出てきた。
「穏当」とか「中正」って、あんまり普段使わないわよねぇ。
ふんわり誤魔化された感じね♡

とはいえ、ふんわりでも「バランスが良さそうなプロセスや、反発の少ない着地点」ってイメージは湧くかしら? 東洋医学でもそう。「過不足や偏りがないこと」そんな状態を指すのよ。
「過ぎたるは及ばざるが如し」って感じよ。この言葉も『論語』の中に出てくるわ。

でも、ここまでの説明だけでは、それこそ「中途半端でどっちつかずな感じ」って気がして、消化不良っていう方もいるかもしれないから、もう少し「健やかさ」の面から踏み込んでみようかしら?

ママなりの言葉で言うと
「自分の快、不快に素直で、且つ自分のおかれた環境と調和がとれている状態」
「成熟と天真爛漫が調和する選択」とでも言おうかしら。

小さな頃は、誰でもが“快”“不快”に素直で、泣いて大人に訴えたり、好きなことのために夢中になって、ぱたっと寝たり。そんな天真爛漫な健やかさを持ち合わせてる。

そうでなければ、産まれおちてすぐに立つことも、大人のような食事をとることもできない”人間”って生き物は、適切な保護を獲得出来ず、大人になるまで生きてられないわ。そうして、幼少期から27、8歳くらいまで発達して、そこから人間としての成熟期に入っていく。

成長につれて、天真爛漫さだけで乗り切るのが難しくなるのは、沢山の物差しに囲まれるからよね。他人の物差しや、常識の物差し、エビデンスといった物差し。そういった物差しと、自分の欲求との狭間で揺れ動くのよね。 それら得たものを、消化、吸収し、分泌してバランスを整え、余分なものを排泄する。生きるっ ていうのはその繰り返し。

常識なんて人それぞれだし、環境、時代背景なんかでも容易に変わるし、同じ人でも時間が経てば、考えや捉え方も違ってくるとこも多いでしょ?
そんなあてにならない物差しに振り回されそうになった時に、わからないことを「わからない」とした上で、捉われず、さりとて忘れず、わかるまでそのままで置いておく忍耐力。そんな風に言えばいいかしら。

忍耐力って大人が身につけるにふさわしい教養だと思うけど、簡単には身につかない。
ママの身を振り返ってもつくづく思うわ。
生きている間中ずっと中庸であろうとするのは無理があると思う。 だからママ自身は、自分にとっての中庸な選択をするためのプロセスは、わりと極端な時があっても構わないと思うの。
のらりくらりとかわせるうちはそれも良いけど、そうもいかない気持ちがムクムクと湧き出てくる事もあるわよね。そんな時に力一杯振り切ってやるだけやってみる。そして結果を受け止め調整し、また出来ることを続ける。

そんなことを続けるうちに、あなたの人生環境での中庸っていうのが捉えやすくなっていく。 そうして、死ぬまで成熟し続けていけるんじゃないかしら?
大丈夫、多少の刺激は身体も頑張って処理してくれるし!!
そうして丈夫さは磨かれていくし!!
ママはね、読書は苦手。だから四書も読んでないし、中庸すらも読んでない…。
この見解は全て自分自身の経験や、見聞きしたことから汲み取ったママなりの中庸。

あなたは、あなたなりの中庸を見いだしていってね♡