頭を静かにする。ということ。
なんとまぁ、三ヶ月ぶりのブログであります。
不精にもほどがあります。
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質問をお寄せくださったかたへの特典は、ブログ公開より先に、原稿を読めることです(笑)。
山口、秋吉台近くの弁天池。綺麗でした。
さて。もう十数年前になりますが、私自身が相談を持ちかけた方から「頭の中のおしゃべりを止めなさい。」と言われました。
他にも、大切な事を沢山指摘されましたが、そのうちのひとつです。
未だに苦心しているメッセージですが、未だに大事だと思い、苦心しながら取り組んでいます。
恬愉に来られた方で、同じことを私から言われた方も少なく無いでしょう。
自分が出来もしていないことを、何故皆様にお伝えしているのか?
不完全ながらも、それを気がけてきたことが、健やかさや、生きることそのものにとって、大切なことだと痛感しているからです。
「頭の中のおしゃべりをやめなさい。静かな時間を持ちなさい。」
そう言われた時「馬鹿の考え休むに似たり。ってことかぁ。」と、やや自嘲気味に受け取りました。
確かに、私が身をもって知りうることなんか、ほんのわずか。そんな自分が、考えることなんて確かに大したことはないだろう。
そうは思っても、そんなに馬鹿な考えばかりを、つらつら浮かべてるとは思ってもおらず「いつか、役に立つ考え」のつもりでいたので、それを止めるのはなかなかに難しいものです。
刺激に反応しやすく、集中をキープするのが難しい私が、ちょっとした刺激に反応し、連想し、あれやこれやと、全く今に関係ないところに飛んで行くことは、おやつを食べるより簡単です。
そんな私が、苦心しながらも、実際やってみて思うのは「馬鹿の考え、休むよりタチ悪いわぁ。」です(苦笑)。
今をときめく土井義晴先生も、先日、星野源さんのラジオに出演された時「人間、頭で考えてることなんか、ロクなことじゃないですよ。」なんておっしゃってました。
「いや、ほんとそれ!」です。
「いつか役に立つ」どころか、邪魔にしかならない。
役に立つ、冴えた考えや、勘のようなものは、むしろ本当に「無我な時」にしか掴めないんじゃないかな。
人間基本的に、建設的な思考に割ける集中力は、よほどな時を除いて、長くは続かないと思います。思考のスタートは、建設的に始めたつもりでも、すぐに「思いを巡らす」ことに移行する。
「あの時、ああやっていれば。」もう終わったこと。
「もし、ああなってしまったら。」まだ起きていない。
「あの人がああ言ったのは、裏に何か意図があったんじゃないか。」推測に過ぎない。
「もっといい方法があるはず。」今思いついてない。
全部、今の自分ではわからないことなんです。
ある程度の段取りを立てることや、同じ過ちを繰り返さないため、より良い未来を創造するため、起こった事を振り返ることまでが無駄だとは思いません。
けれど、その時に「すっ」と腑に落ちないものを、こねくり回して思い続けても、疲れこそすれ、休まりはしないでしょう。
「今の自分ではわからない」ということを受け取り、「わかるまで置いておく」
そんな風に、昔よりは随分と素直に、頭のお喋りを止められるようになった今、昔の自分がいかに疲弊していたか、よくわかります。
皆さんの中にも、その疲弊を積み重ね、体に不調が現れている方、不調に拍車をかけている方は少なくないのです。
経験上、必要なことは、必要な時にわかります。
頭を静かに、ご自愛ください。