2021.11.12

恬愉 原禎子のスタンス

 

こんにちは。ただ今、東京出張整体中です。西荻窪はここのところ、すごくいいお天気です。

今日は、所信表明というと大げさな気もしますが、私がどんな考えを持って施術にあたっているのかを書いてみたいと思います。

「治癒」というのは「その方の治癒力がもたらしたもの」だけを指し、高度な医療であれ、私たちのような補完医療であれ、他人や技術がもたらすものはその補助に過ぎない。と考えています。

これは、医療行為や医学、他者の介在を否定する考えではありません。

自分で自分の身体に、何が起こっているのかわからない時に、闇雲な対処をするのは得策ではありません。適切な医療機関の受診は、客観的事実をみせてくれる機会となり得るわけですし、大きな病気をしたときや、命に関わる事故などの際に、医療で繋ぎ止める、凌ぐ。その事で、今以降に治癒力が働く可能性が、初めて開けることもあるわけですから。そして昨今の長寿社会。これは紛れもなく、医学、医療の発展、尽力の賜物です。

私自身が東洋医学を学び始めた頃は「『治療家』を目指すわけだから『治せる人』にならねばならぬ」と思いながら、同時に「いや、治すって何を指すの?」とどこかモヤモヤとした気持ちを抱えていました。

そんな気持ちを晴らしてくれたのが『整体入門』に書かれていた著者、野口晴哉の言葉でした。

~「あの医者が気張らないから俺の糞が出ない」とかいうようなことを平気で言う。やっぱり他人が気張って出るのは自分の糞なのです。~中略~自分の糞は自分で気張らねばなりません。~

今でいう「それな!!!!」の心境です。

もちろん、学生の時分ですので、私自身が「代わりに気張ってくれ」というような事を言われたわけではありません。むしろ治療家になろうと息巻いていた自分に対して戒められたような気がして「出しゃばらず、邪魔をせぬよう気をつけよう。」感じ入ったものでした。

だって、本人ですら「糞を作ろう!」なんて意気込まなくても、自律的に作ってくれる身体がある。誰に教わったわけでも無いのに、用を足す身体の使い方を知っている。本人であれ、他人であれ、その能力に余分なことをしないに越した事はないと思うのです。

その自律性が乱れた時に、添える手立ても、過不足のない最低限であるのが望ましいと考えています。

実際には、施術を生業とするようになってからも「なんとか良くしよう!」と、技術も心も空回りさせる事も多々ありましたし、今でも、過不足なく皆さんに寄り添えているのかは、わからない時も少なくありません。それでも「過不足なく寄り添う」ことは、おそらく変わらない目標であり続けると思います。

今現在「誰か、助けて!」「誰か、治して!」そういった心境にある方には、心許ない、期待外れな言葉かもしれません。それでも、皆さんにとって恬愉での時間が、自力で、逞しく、健やかに進めるきっかけのひとつになればと考えています。